itoh-imaginary0205のブログ

ゆかしい雑記物。はたまた備忘録。

ACCA13区監察課:|

 

中央政府から地方政府への権限移譲はいわゆる「地方分権化」の流れにある。

権力の対比で中央は多くの組織資源や金銭や統治能力がある。地方は、その限られた範囲で運営をしているから権力は弱い。

 

分権化の流れがなかなか進まないのは、基本的に中央がどの権力を配分するかの範囲が定まらないからだと考えられる。

それが決まって初めて分権がおこなわれるが、やはり権力を手放すのには時間がかかる。

 

「ACCA」という民間組織は地方自治を促進させるインフラ、公共的な存在である。だが、「監察課」は中央の統治と地方の自治の二方面から向き合わなければならなかった。

 

このアニメは実に政治の話をうまく使っている私は思う。それぞれの13の区は、個性豊かな自治区であり、不便なところがありながらも幸福に生きている。しかし、ある区では「区」と呼ばず「国」として閉鎖的に扱われる地域が紹介された。そこは、クーデターでACCAが誕生する以前の「王国」支配の名残だという。

 

民主的正統性は、政治学でもよく聞く。はじめは君主に対する抵抗から始まった。君主という上から多くの支配権力を下へ移し、それが緊張を迎えると革命やクーデター(内破)という強制的手法をとる。殺害して血も流れてしまう。血統主義に正統性があったなら尚更と思う。だが革命後の国の形成はほぼ失敗に終わる。なぜなら、強制的な排除をしたまでで、国の再興、つまり統治能力や正統性の課題は未だ乗り越えられないからである。

 

ACCAの話に戻すと、この民間組織は地域全体の100年前のクーデターを抑えるために結成されたもので、初めは王国側の上からの抑圧的なアクターであった。

アニメの第1話=100年後の現在になると、この監察課の廃止が取り上げられる。縮小、自治権の監視解放が果たされつつあった。ここを出発点にして、紆余曲折ありつつ「ACCAの存在とはなんだったのか」と再評価へと話が進んでいくのである。

 

統治するのは誰か、誰のための統治か。私たちの普段生活する市の行政や区の行政も公共のためと、国家の行政の肥大化といわれている。経費を削減しよう、公務員の給与を下げよう、こういった縮小と、並んで民間への移行が進んでいる。

このあいだも区立図書館に足を運んだが、服の色が違う民間業者との共同運営を目にした。

 

では、このまま民間ばかりが必要かといえばそうでもない。その地に住み慣れた人々にしか、不便さや満足が何なのかを共有し感じ取れないからである。

 

ACCAに登場する職員は異動をくり返しながら住み慣れる「区」を認めてやまない。その地の風土を知り、不便を知り、幸福を知る。区をまたぐ土地全体の情報を知りうる1つの組織であり、仲裁の存在である。

 

 

↓以下の内容は全て見てからで…

 

最後の続き。

5長官会議のメンバーそれぞれは、かつての区に対する誇りを持ちすぎるあまり、恣意的になっていた。あるいはACCAの実力を強く信じている人たちの集まりだった。それが廃止されることで、新たな「民間」として意思表示したともとれるだろう。次期国王とのコミュニケーションで透明性を高め、情報の不確実を減らせたことが何よりの統治の証である。

主人公の母(第2王女)の俗世へ降りる決意に忠実であったから、平穏無事を成せたのである。あそこで復活を持ち込んでも、民衆に認められるとは思えない。たとえ愚かでも、認められるべきだと私も同感する。

 

とにかく、最後の着地点が良かった。やっぱりあの人が黒幕か!と思いました。なにも交通機関を使えないっていうのが謎で引っかかってました。これを口実に色々動いていた?動かず静観していた?のでしょうか。白髪はミスリーディングでしたね。

あと、主人公と友人は男同士でデキてるようにしか思えません笑

 

書いてくうちにブログの着地点はなかなか見つからなかったのでここで終わりたいと思います。長くなりました。

 

 

 

 

私たちの「匂い」はいつまで続いていくのか。

 

はじめのブログから1週間ほど経ちました。

なかなか書く内容がついぞ見当たらなくて困りますね。まぁ、性格的に向いてないのかもしれません。それでも今日だけでも、(明日だけでも?)散文を投稿します。

 

数年前の回想〜現在

 

 私が大都市「東京」にはじめて足を踏み入れたとき、あれはたしか銀座の通りでした。深い夜の繁華街です。

ショーウィンドウの灯りが豪華絢爛で、目がくらくらするほどに美しいと感じていました。いまだにその感動は残っています。周りの歩く方達でさえお洒落に身をまとい、ひとしきり綺麗でした。

こういうのは、目にはとても幸せだと思っても、私の鼻はいっこうに幸せではありませんでした。

お店の裏の換気扇、その下にうずくまるホームレスなおじいさん。路に唾を吐き捨てる若い方。密集のはての、よどんだ空気。いくら表が綺麗でも、悪臭や排気の匂いが漏れ出て、鼻につきまといます。

この衝撃の方が強く、私にとっての東京は汚らしさのシンボルと思うようになりました。

それでもいくらか面白いことも発見することになります。それは目に疲れがくるように、鼻にもいずれ疲れがくるということです。

 同じところにとどまっていれば必ず疲れはやってくる。それは家の生活臭だったり、森の神秘的な匂い。古臭い本の匂い。蚊取り線香の匂い…だったり反動が迎えにくる。

必ず慣れ親しんだ匂いの元へいちど帰るのです、と。 

   

(現在)

 

「香水」とは、こうした中でも少し特異な存在といえます。自分の肉体が放つ匂いを加工して、相手の鼻を疲れさせ、空気を誘い出します。歌手の『perfume』は、歌声やメロディを機械で加工して、刺激的な香水を振りまいています。

(個人的にはあまり聴かないジャンルなので、歌手名の由来などについて詳しく分かりません……調べてみると面白いかも。

うん。やっぱり『きゃりーぱみゅぱみゅ』の方かな。疲れやすさNo. 1!…)

 

こうやって”加工”、”疲れさせ”と書くとなにやら危機感を与えている風にも思えますね。

 

 

(↓以下、本の紹介)

私が今読んでいる小説『パヒューム』はそんな危機感、何の匂いのしない男による匂いの一方的「支配」をしきりに感じさせます。

主人公の彼には、慣れ親しんだ匂いなどありはしないのです。そもそも匂いを持っていないのですから。ものすごく独善的な人物です。それにくわえ害虫のように生命力が強い。

そんな彼に対して、危機感と同時に疲れ知らずのカリスマ性を感じざるを得ません。

 

目や口は、反射的に閉じることは出来ます。

ですが鼻とは、万人が万人に晒される「ハダカの生きもの」ですからね。

たとえ、手でつまんだって漏れてきます。なんでも、疲れがきます。思わぬ衝突を招くかもしれません。

 

以上。まだ最後まで読んでいませんが、これから読んで感想をかけたら、書こうと思います。

 

私の第1歩は、夏の終わりから

 まだまだ外は暑いですね。

初めてブログを書きます。今まで日記とかを書いていましたが、誰かに公開するかたちは、いちどもありませんでした。なので少しさらけ出す緊張を感じつつ、気楽にやっていこうと思います。

このブログでは、興味関心のある本を紹介/評価したり、なぜか腑に落ちないような体験や心象を書こうかなと構想しています。

 私は、はっきり言って「まるでダメな」ナマケモノです。不定期の更新ともなりますが、ともあれ、締まり感とユルユル感の両方を大切にしていきたいです。