itoh-imaginary0205のブログ

ゆかしい雑記物。はたまた備忘録。

"CHRONIC"(2015) 死は人の「何を」蝕むか

 

 邦題は『ある終焉』2016。「chronic 」とは英語で「長引く、慢性的な」といった形容詞を示しています。この映画は、長引く病、と意訳できるかと思います。より分かりやすく、解説で具体的に述べられたブログは以下です。私のより、こちらを強く、お勧めします。

映画『或る終焉』解説

 ところで、いくつかのレビューを参考、拝見したところ、主人公の境遇に同情するようなコメントがありました。とても分かりやすく、私も共感できるところが多かったです。公式でも、看護師の献身的な愛や孤独をテーマにしている感じです。

ただ、うがった見方と例えられて良いので、そういった情という部分を少しずらつつ、抽象的で簡単な感想を書いていきます。

 公式サイト

映画「或る終焉」公式サイト » 映画「或る終焉」

参照ブログ

映画「或る終焉」は看護師&介護士におすすめ!ネタバレと感想

 

すごく断定的に述べると、ホスピスターミナルケアと呼ばれる終末期医療を、ドラマ性で完結させるような作品ではありません。その現場で働く苦悩や遺族の悲しみの生々しさを、存分に活かして表現しているように思えないのです。

もしそうだったのなら、(衝撃?)ラストシーンは、不必要な蛇足となっていたでしょう。私はそのように思います。


では、何がこの映画で語られているのでしょう。それは、鑑賞する側の「静寂」「沈黙」を引き出す目的、単にそれが貫かれています。リアリティを鑑賞する側の個々に要求したといえます。

ケアに細かい視点を求めないだろう、とも考えられます。終末の備えは確実に減っていくなかで、看取る側(職員や親族)は、いかにもあっさりとしています。
したがって、映画が醸す静寂が、輪郭のない死につきまとって展開されます。それが、もはや退屈とするほどに「静か」でしかなく、憤死などよりも淡々と逢着せざるをえません。


そこから、私に芽生えたリアリティは、「死に目を背けながらも、着実に死によって蝕まれている」それゆえ、に何かが欠けた人々の在り方でした。
ケアに関わった誰かにしろ、他者からみて、悲しい「風体」に映ります。当の本人には、一定状態を保っていると思っていても、全体的に落ち込んでいることもあるでしょう。例えば、主人公のケア以外の諸々の言動は、観ていて何か違和感を覚えるでしょう。


今回は鬱っぽい作品と言えばそうですし、私はそのようにしか見えてきませんでした。救いのような生は、死よりも優先されるべきことです。しかし、それでも生の何かを代償にして、死へと傾斜していく気がしてなりません。これこそが長引く病=呆然なのでしょうか。
映画作品としてなら観れますが、自分の身として考える(リアル)といっそうの恐怖や困難を感じさせてきました。

 


追記(映画を観終わって、、)
ケアワーカーとして、「強い」患者や親族に対して、つねに「弱い」立場だという二項図式の捉え方ではなく、その不分明さに注意したい。もっともサービスの限界点、およびその先鋭的な意味がケアワーク内部に胚胎している。