itoh-imaginary0205のブログ

ゆかしい雑記物。はたまた備忘録。

"Stranger than fiction"(2006)

 

映画の紹介と感想です。

前置きですが邦題(「主人公は僕だった」)と映画の内容が、ズレているような気がしました。

(Truth is)"Stranger than fiction" で「フィクションより奇妙だ」転じて「現実は小説より奇なり」という語呂合わせになります。

この題からも明らかなように、現実と小説の間には予期せぬことが起こりうることを指しています。小説とは、物語の中で喜劇、あるいは悲劇といった終わりが有ります。

今回の映画の核は、この「終わり方」を現実の人間の「生き方」との対比で戦わせている点です。

ここで簡単なあらすじ(導入)を紹介すると、主人公は国税庁に勤める男で、何でも行動や目に映るものを数字に直す、癖のある人間でした。しかし、ある日、頭の中の語りが女の声だと知り、自分の行動が声の主によって左右されていると思うようになりました。そして、その声の主から「このちょっとした出来事によって死んでしまうとは、知るよしもなかった」と言われ、彼は、声の謎によって、自分の生き方を見直す契機になるのでした。

私の感想としては、ちょっとトゥルーマンショーに似ていますが、この映画の方がストレートな表現なので面白かったです。でも、主人公の過去が全く出てこない点に少し違和感がありました。また、「人生何が起こるか分からない」という部分を通したいが、ちょっと単調ぎみだったのかもしれません。例えば、有名な大学院にいた女性が「平和のために」ベーカリーを営んでいるなど…

 

 

 

(ここから以下はネタバレ含みます。視聴後か、気にならない方はそのまま。)

 

ほぼ全容になってしまうのですが、私はこの映画を、2つの視点からみていました。

まず、第一に小説家と主人公の生きる現実と出来事が一緒だとしても、単に「偶然」一致していた場合があります。たびたびベーカリー屋の女性や唯一の同僚、ホームレスとの「会話」が起きます。たとえ小説のストーリーラインには些細だとしても、心境変化の大きい偶発性があります。現実の主人公は、彼らとの関係を、表情に乏しいながら喜んだり、泣いたり出来ます。

そして、それは小説家にも及びます。

映画の終盤で主人公は、小説家(声の主)とその小説に触れて、自分の死を結末に書くように勧めます。しかし、彼女は葛藤した末に、自らの意思で彼の死を回避させる「偶然」を装ったのでした。

この第一の点から考えられる「偶然」とは人々の生き方や死に方を決定するものは存在しないし、干渉できないという「生への意思」によるものです。

 

次に第二の点として、主人公と小説家はほぼ同一人物ではないか、という共通性です。

主人公は国税庁に勤めながら、人との関係を築く喜びに気づかず、いつも同じようなルーティンワークをこなしていました。いわば、自分を殺す、生き方の消失でした。

対して、小説家は殺人の悲劇小説に真剣になるあまり、スランプにありました。その要因は「人を殺す」というリアリティに罪悪感を抱いたからです。そのため、人の死に方だけに囚われます。病院のシーンでも、確実に死ぬ人物に会わせてくれとまで言うようになります。

結局、タバコで気を紛らわしながら、現実の生き方を失われていくようになります。

また、どちらも孤独だったことも共通しています。そしてどちらも映画のラストのような「温もり」を欲しかったのだと気づくのです。

 

以上のようにかなりストレートな内容なので、全体的に面白いと感じました。最後に温もりとして、2人を合わせて救済したという部分が喜劇でも悲劇でもない「決着」です。とても良かったと思います。