itoh-imaginary0205のブログ

ゆかしい雑記物。はたまた備忘録。

映画感想。人間的なもの。

 

『T2トレインスポッティング』(2017)をレンタルして観てみました。イギリスのスコットランド制作で、原作は有名な小説に依っているそうです。動機は、映画の独特性と個人的な関心と重なったからでしょうか。

以前に「トレインスポッティング」(1996)を観て、

「この映画の題意、そして何を伝えたかったのだろうか?」

と不可思議に思っていました。第一印象は、「破天荒」「若者がもつ粗暴さ」こういうありきたりな形容でしか見通せませんでした。

確かにヘロインを始めとする薬物依存症や窃盗、喧嘩上等の登場人物(ベグビー)など、感情移入が難しかったのです。日本に住む人には遠い物語的なものにしか映らないかもしれません。若者の閉塞感とそれへの昇華が溢れた作品だったと感じました。

そして、このような心情を抱きながら、映画の続編を迎えました。

前作のラストから20年後を描く今作は、若者の姿から見た目は「中年の大人」へと下ります。基本的に若者から大人に変われば、彼らの粗暴さは少なからず取り払われていく、そのような成長を得るかと思いきや、全く変わっていません。いくら経験しても、直そうにも直さないもどかしさ。

しかし、逆にとても人間らしい、変わらない彼らに共感も抱かせるわけです。

この映画のキャッチコピーは「人生を選べ(choose life)」です。人生を選べ、と社会という実体のないところから命令が下る、そこに焦燥を抱えつつも、結局変わらない「人の性」が描かれています。

このような視点からみると彼らの物語は「悪」行ではなく、何ともなく切実な「叫び」に変わるということでしょう。悪と呼べるかどうか迷ってしまう、それは自己に省みないと発見しえない感情かもしれません。だから結局、物語的なもので認識するしかないし、そして彼らのような素行を被りたくはないという忌避意識に届くのでしょう。

あるワンシーンで主人公のマークは、人生の選択を訴えかけます。セリフには、定職につけない、SNSFacebookに写真を載せて「自分を見て」とした社会病理な在りように皮肉を込めて、まくしたてます。そして、相手に「人生を選べ」と社会の代弁するのです。非常に自分の生活範囲を超えた上から目線なのに、核心を突いたような気分にさせてくれます。

(私の飛躍した勝手な解釈ですが、)つまり、「人生を選べ」に隠された社会の姿は、動き出してまた一旦止まる電車(train)に例えたものだったのではないでしょうか。彼らは足を止めて(spotting)叫び、次の停留所(ライフイベント?)に構わず精一杯頑張る。でもそれはレールを乗っているふうに、社会は変わらず運行を優先して日々を送るのです。人が作った人ではない「機構」ですから、当然かもしれません。

しかし、そこで疑問がはたまた浮かびます。では彼らの滞留した感情は解決困難な苦悩で片付けてよいのでしょうか。分析的な観点でみたら、社会心理学のいう認知的不協和の問題かもしれません。

また、この映画の背景に、スコットランドの生活を重ねている記事を見かけました。私の記事よりこっちの方が分かりやすく、お勧めです。

スコットランド人は『トレインスポッティング』をどう観たか? - i-D

イギリスの政治事情と独立の気運を高めているスコットランドについて書かれています。人間的な部分が政治の場面にも登場している面白い話だと思いました。

独立へと進むとしたなら社会のルールさえも変えてゆける、そういう力強い像があるのでしょう。

 

 

相変わらず、オチのない衝動で書いているので、今回もこれで終わりたいと思います。結局のところ映画について、前作をつないで、良かったなということです。現実離れして、少し消化不良なところがありますが、くせがあるだけで何も考えず時に笑って観ることが1番ですw