itoh-imaginary0205のブログ

ゆかしい雑記物。はたまた備忘録。

『神の値段』第3回

 

第二回から順次、残りも抜粋していきます。抜粋が下手くそ!と記事を書きながらに、すごく思います。ともかく気を取り直してやっていきましょう。

前回から通底しているのは、

「芸術(アート)とビジネスはどのようなバランスをとっているのだろうか?」

という問いがあると思います。美術館に展示されている作品達はもちろん価格表示して飾っているわけではほぼありません。

たしかにそうした古典的な作品はどれも亡くなっている場合が殆どで、ビジネスでやっているということはないでしょう。死後に再評価されることもあります。

しかし、現代の生きる芸術家は、そうはなりません。死活問題にもつながるのです。そこで、アートが存続する本質を覗いてみたくなります。現代に存在して、初めて歴史的に古典も揃って認められるのですから。

では、残りも続けたいと思います。

 

4.の続き、唐木田のセリフ。

 

「そうです。昔はアートを買うというのは、賽銭箱にお金を奉るようなもんでした。自分の信じる神にお金を払うことで、その下で働くスタッフの生計や、神社を綺麗に保つ資金にしてもらって、ささやかな願いを込めるという習慣を楽しんだ。…」  (p.247)

 

5. 川田無名の過去の原稿

 

信仰とは、社会一般に行き渡った、慣習の結晶である。個人が信心深いか、教養があるか、とは無関係に、共通語彙、又、能記として、地域や民族が覆う。墨の文化は、国という枠組みで輪切りにされ得ず、周辺の歴史と複雑に関係する、視覚的言語である。 (p.250)

 

6. 無名を好む中国人の一大投資家、ラディと私(主人公)のやりとり。

 

(ラディ)「ゲームですからね。ルールはあっても目的はないのかもしれない。美術品を集めるのは、究極の道楽です。金のかかるゲームであり、一種の宗教みたいなものだ。いえ、冗談ではありません。先生は私の神で、私は先生の信者だ。だとすれば先生の作品はさしずめ、信仰の商品化かな」   (p.297)

 

「…アートを買う気持ちというのは、好奇心が強く柔軟で、車や宝石では満たされないんです。だからこのゲームに嵌まり込んでしまいます。上がりがあるかどうかも分からない、ただ神を求めるゲーム、悟りを求めるゲームが、長い歴史にわたって文化として営まれてきました」 (p.297)

 

7.わたしの父の言葉。

 

(価格と値段の違いとは)

「価格というのは、需要と供給のバランスに基づいた客観的なルールから設定される。一方で値段というのは、本来価格をつけられないものの価値を表すための、所詮比喩なんだ。作品の金額というのは売られる場所、買われる相手、売買されるタイミングによって、常に変動し続ける」 (p.337)

 

 8. サインの意味

 

(私)「…というのも、1917年に(マルセル・)デュシャンが既製品であるトイレの便器にR.Muttというサインを入れただけの物を作品だと主張したことで、サインがそれまでとは全く別の意味を帯びるようになったんです。それまでサインといえば、たとえば版画のように同一の作品が量産できる場合において、主に真贋鑑定の大きな手がかりとして機能していました。しかしデュシャンが便器を発表して以降、真贋鑑定の判断材料としてだけでなく、完全に作家の手で制作されたものでなくても真作だと認めさせる魔法として機能するようになりました。…」

 

 

以上で終わりです。ふぅ、長かった。

それにしても、「アート」、「芸術」、「美術」この3つはどう区別できるでしょうか。とりわけ横断的なのでしょうか。この小説を読んでいても、その謎は解けてなかったような気がしますので、今後の調べに任せようと思います。

けっこう抜粋するだけでも面白いですね。意外とありきたり?な内容ですが、知らない世界も感じて、ついつい記事を連投してしまいました。

みなさんはどうお感じになったでしょうか。