itoh-imaginary0205のブログ

ゆかしい雑記物。はたまた備忘録。

参議院と政治史と制度

 

(備忘録)

よく各社の新聞を拝見すれば、容易に理解されるのですが、参議院とは、口を揃えて個性的な期待が述べられています。それは、通説に従って「熟慮」「再考」「反省」を促す議院としての役割です。一部に、衆議院に対する差別化を目的に考えられるのでしょう。

しかし、このような世論やメディアの流布とは異なった観点から、参議院の役割を分析する政治学的議論が存在します。

とりわけ注目するべきは、政治学者の竹中治堅さんによる『参議院とは何か』(中公叢書、2010)で論じられる「首相と参議院」の関係です。

 

参議院とは何か 1947~2010 (中公叢書)

参議院とは何か 1947~2010 (中公叢書)

 

 

この関係は、両者の力関係に依存するもので、竹中さんによれば、近年の首相の権限強化と相まって、参議院の影響力も強まりつつあるとされていました。

特に本書で私が注目したいのは、連立内閣の形成です。与党にとって、衆議院過半数が保たれていても、参議院過半数議席を得られるかどうかは定まるとは限りません。むしろ、政権構築に大きな影響力を与えるでしょう。

かつて、1986年の衆参同日選までは自民党単独過半数、が両院とも確保されて、当時の中曽根三次内閣は安定した単独政権運営を示していました。

ところが、1989年の参院選日本社会党の躍進があり、土井たか子を筆頭とする「マドンナブーム」を引き起こします。この結果、自民党参院過半数を割ってしまい、野党全体が過半数をもった「ねじれ」が誕生します。自民党は、そのおかげで、法案通過のために参議院を配慮しなくてはならなくなったとされています。本書のデータでは、予算国会における閣法を中心に野党(社会党民社党公明党)合意の比率が高まったことを表しています。

翌年の衆院選は、海部俊樹内閣のもとで自民党は前回議席を維持させる結果を出します。衆院単独過半数はこれにより、未だ守られることとなります。

しかし、まだ「ねじれ」は維持されているので、その後に関連するPKO協力法などの政策合意は、自民党公明党との二党間で形成することに繋がっていきました。

宮沢喜一内閣も同様に、野党による不信任決議の可決に苦しめられるわけですが、この時期は、政治改革に関する法案が審議されており、小選挙区の新設を巡る選挙制度改革について議論が活発化します。そのさい、党派的ないし党内対立の分断と分裂が巻き起こります。

このような事態は、およそ参議院の役割を超えた課題をもたらしたと想定されるでしょう。(21世紀臨調も同じ)

そしてその余波は、衆院選の新党結成、自民党過半数割れと、細川「非自民党連立政権」の成立へと導出されました。

 

民主党民進党に分裂し、立憲民主党が設立される現在の状況は、この1993年前後の動揺に似ていると私は考えています。

また、希望の党の元代表の小池百合子氏が、日本新党として細川護煕氏と共に、参院選へ乗り出した時期は、1992年です。日本はこの時期が収束していない状況であり、小選挙区比例制が現実となる前(実施前)の中選挙区制の状況でした。

 

現在は、二大政党制への集合が、一党優位下の連立内閣に逆戻りしているような気がします。もしくは、連立内閣の内実は変化しているのでしょうか。

とくに、参議院小選挙区中選挙区の混合制が純粋な二大政党制を形成しない、というのが一定の了解でしょう。その結果、連立内閣になっているのは言うまでもありません。

(参考)

 

民主主義の条件

民主主義の条件

 

 

ほかには、連立内閣を組むことにより、委任-責任の関係を緩めたということでもあります。多様な意見を集約し、合意形成を果たす期待も得られますが、公明党は何をしているのか分かりませんし、自民党の数集めにしかなっていないように感じます。

政治的代表としての自由な表現が重視されていくのかもしれません。

 

しかしながら、本質は国民の信用に足りているのかどうか、不信がどこで発生しているのかだろうと考えなければ、改良へ向かわないのが実情でしょう。

参議院は、連立内閣を促すだけの役割に加えて、その歴史的な権威の低下が大きいです。完全に切り離すことで権威が高まるかもしれませんが、憲法に反することでもあります。要は、参議院が現実的に多様な民意を伝える回路として機能していかないし、中途半端なコンセンサスを与えている形がみえます。

"Memento” (2000)不確かな記憶の断片

 

こんにちは。今日も映画の感想です。映画「メメント」は知る人は知っている作品です。難解中の難解さゆえ、記事にしようか迷いました。

また、ほとんど語り尽くされている気もします。とりわけ、以下の記事(サイト)が極限まで考えつくされた良い例です。ここでは、パッケージに描かれるようなあらすじを超えたストーリーラインを展開している点で、非常に興味深いものとなっています。題の意味まで踏み込んだ内容もあるので、オススメします。

 

メメント 時系列順のあらすじ | :映画のあらすじと詳しい解説、批評 

 

上の記事で言及されていない部分を書ければ良いなと思って、感想を書いていきたいと思います。また、より忠実な解釈を求めるようにしたいと考えたりしています。

一応ここで、あらすじを紹介します。

ある日、自宅に押し入った何者かに妻を強姦、殺害されます。主人公・レナードは現場にいた犯人の1人を射殺するも、犯人の仲間に突き飛ばされ、その外傷で記憶が10分間しか保たない前向性健忘となります。

その後、探偵業と名乗って妻を殺害された復讐のために犯人探しを始めます。

覚えておくべきことをメモすることによって、自身のハンデを克服し、復讐を実現しようとします。出会った人物や訪れた場所はポラロイドカメラで撮影し、写真にはメモを書き添え、重要なことは自身に刺青として彫り込むようにしています。しかし、全てがレナード1人の目的と行動ではなく、その周囲にはテディという人物が絡んで映画は進んでいきます。

あらすじは以上です。

こんだけ書いといて矛盾しますが、このあらすじ自体が完全にその通りとは言えません。明確に言えば、この展開を「記憶させる」ことで、虚飾ないし嘘が少なからず紛れさせている可能性があるのです。このようなあらすじは、映画の「狙い通りの作戦」だと思ってください。

 

 

【昔の自分と今の自分】

監督のインタビュー映像を観て「昔の自分と今の自分」の連続性はあるのか?という疑問がありました。生まれた年や出生地は○○、○○の学校へ行っていた、など昔の自分はこのような「情報」「動機」を頼りに相手に伝えられます。しかし、今の自分はそれとは程遠い記憶を繋ぎながら、生活をしています。クリストファー・ノーラン監督は、この自分という時間的な記憶の隔たりを映画に表したようです。今の自分は過去の自分と共有している、そう思い込む(信じ込む)ための記憶を示したと考えられます。

レナードが持っている自分の記憶は分けて2つありました。妻の記憶とサミーの記憶です。妻のほうは、レナードの記憶によれば、「強姦されて覆われた妻と犯人を私が目撃」「殺害された妻」「妻がベッドにいる」「テーブルに座っている」「部屋の外から私を覗いている」など…

一貫して回想のように、妻を大切にしている映像が流れているかのようでした。しかし、それらは、あくまで妻を見るレナードの「記憶」なので、事実とは正確には言えないものです。さらには、「大切にしている」と信じ込んだ記憶なのではないかと、観客(私達)を思わせるのです。

 

(これがテディの最後の告白によってしか、観客は確認できない。なので、テディの告白全てを信じて良いのかどうかも、「あやふや」に思えてくる。)

 

解説を見れば分かりますが、この映画は登場人物の嘘ばかりです。嘘も方便どころの騒ぎではありません。レナードが直ぐに忘れるからといって、ここまで利用されてしまうことは観ていて悲しくも思えます。しかし、レナード自身は被害者という面だけではなく、自身の嘘が大いに関係しています。

復讐を完了したその時点で、レナードは、昔の自分の目的を今の自分が果たすことになります。劇中、ナタリーは復讐を忘れてしまうのではと問いかけます。

それでも'I've done it.'(私は復讐を果たした)とレナードは最後の最後まで言えません。ジミーを絞殺したのち、車で走らせるシーンがあります。ここで、妻と共に、左胸にその刺青を残したレナードが刹那のように映りこみます。

やったという実感や贖罪の潜在意識を、記憶の中の刺青によって、解消していたのではないかと思います。

刺青の写真を載せた映画の特典も見ましたが、やはり左胸に存在していませんでした。なおかつ、かなり曲がった解釈かもしれませんが他に2つほど、示唆するようなシーンがありました。

ひとつは、一年前の復讐を果たした写真で、左胸を指差すレナードがいました。私という意味と同時に、そこに刺青を残すであろう点で共通しています。

2つ目は、鏡の前でレナードの肉体にナタリーが指差すシーンです。ここも、やはり左胸でした。

監督インタビューによれば、やはり「レナードの視点」と「観客の視点」を合わせるようにしたと述べられています。こうすることで、レナードへの同情や彼の「思い込み」を観客もまた、「思い込み」として消化してしまいます。

レナードの視点が崩されて、初めて観客は観客に戻れるといえましょう。

 

【映画の魅力】

メメントがもつ魅力は、この私自身への記憶の問いかけに有るのではないかと思いました。レナードの視点が崩された時に、観客は観てきたものを再構成しようとします。このことは、非常にありふれています。善意の行為と思いきや、だんだん独善に変わってたりなんて…

記憶の美化はその一種の形だと思います。今の自分の視点を与えたきっかけにして、過去の自分の記憶の断片を、みずから再構成しているに過ぎないのかもしれません。

不都合な部分を隠す機能も記憶が果たせるでしょう。あくまで私が過ちと「是認」しないままにひた隠しにすることもあり、記憶は便利な代物です。対して、ストレスを緩和させるためにも必要だと言えるでしょう。

1つの白いキャンバスに例えるなら、いろいろな色に混じって、最初に描いた絵から全然違った絵が出来上がっていく感じでしょうか。自分が見ないうちに他の誰かが書き足してって、それに気づいても気づかなくても絵に跡を残したり、色を重ねていくと、もはや完全に自分の作品とは言えないところでしょうか。

 

 

 

取り留めのない話に落ちてしまったので、ここで終わりたいと思います。後半のところは、整理して伝えたい点が有ったのですが、上手くまとめられませんでした。

映画を観て「混乱」が欲しくないと思う方にはまったく勧めません笑。苦手だな、とそういう方のほうが多いとは思います。

もっと分かりやすくして下さい、ていうのが何時もながら、私の率直な思いでした。結局何が言いたいかをはっきりして欲しいし、もう当分はこの映画は観ることはないでしょう笑。

 

"CHRONIC"(2015) 死は人の「何を」蝕むか

 

 邦題は『ある終焉』2016。「chronic 」とは英語で「長引く、慢性的な」といった形容詞を示しています。この映画は、長引く病、と意訳できるかと思います。より分かりやすく、解説で具体的に述べられたブログは以下です。私のより、こちらを強く、お勧めします。

映画『或る終焉』解説

 ところで、いくつかのレビューを参考、拝見したところ、主人公の境遇に同情するようなコメントがありました。とても分かりやすく、私も共感できるところが多かったです。公式でも、看護師の献身的な愛や孤独をテーマにしている感じです。

ただ、うがった見方と例えられて良いので、そういった情という部分を少しずらつつ、抽象的で簡単な感想を書いていきます。

 公式サイト

映画「或る終焉」公式サイト » 映画「或る終焉」

参照ブログ

映画「或る終焉」は看護師&介護士におすすめ!ネタバレと感想

 

すごく断定的に述べると、ホスピスターミナルケアと呼ばれる終末期医療を、ドラマ性で完結させるような作品ではありません。その現場で働く苦悩や遺族の悲しみの生々しさを、存分に活かして表現しているように思えないのです。

もしそうだったのなら、(衝撃?)ラストシーンは、不必要な蛇足となっていたでしょう。私はそのように思います。


では、何がこの映画で語られているのでしょう。それは、鑑賞する側の「静寂」「沈黙」を引き出す目的、単にそれが貫かれています。リアリティを鑑賞する側の個々に要求したといえます。

ケアに細かい視点を求めないだろう、とも考えられます。終末の備えは確実に減っていくなかで、看取る側(職員や親族)は、いかにもあっさりとしています。
したがって、映画が醸す静寂が、輪郭のない死につきまとって展開されます。それが、もはや退屈とするほどに「静か」でしかなく、憤死などよりも淡々と逢着せざるをえません。


そこから、私に芽生えたリアリティは、「死に目を背けながらも、着実に死によって蝕まれている」それゆえ、に何かが欠けた人々の在り方でした。
ケアに関わった誰かにしろ、他者からみて、悲しい「風体」に映ります。当の本人には、一定状態を保っていると思っていても、全体的に落ち込んでいることもあるでしょう。例えば、主人公のケア以外の諸々の言動は、観ていて何か違和感を覚えるでしょう。


今回は鬱っぽい作品と言えばそうですし、私はそのようにしか見えてきませんでした。救いのような生は、死よりも優先されるべきことです。しかし、それでも生の何かを代償にして、死へと傾斜していく気がしてなりません。これこそが長引く病=呆然なのでしょうか。
映画作品としてなら観れますが、自分の身として考える(リアル)といっそうの恐怖や困難を感じさせてきました。

 


追記(映画を観終わって、、)
ケアワーカーとして、「強い」患者や親族に対して、つねに「弱い」立場だという二項図式の捉え方ではなく、その不分明さに注意したい。もっともサービスの限界点、およびその先鋭的な意味がケアワーク内部に胚胎している。

"ARRIVAL "(2016)

 

 何日か空きました。ブログのネタ探し的な要素がだいぶん反映されてますが、映画紹介、あるいは考察や刺激を与えられないものかと、わたしは考えてきました。

今回は、SF映画”ARRIVAL"(邦題『メッセージ』2017)に対する記事でその感想コメントです。見てみたい方の後押し的なのになれば大成功と思います。

しかし、ネタバレを意識して書くので、事前の情報を含め、本気で観たい人はこの記事を見ない方が適切です。この記事をきっかけに見て欲しいなっという思いもかなり有りますが…笑 あとは、特に観た後にでも…笑

 

【SFだから成立してしまった、少し難のあるインパクト】

初めに述べると、「激しくなく、人間の記憶や心を宇宙人にすり寄せた」感じです。印象ばかり求めがちですが、宇宙人は中心にいません。そのへんはやはりヒューマンドラマの域から出ていませんでした。

難のあるインパクトとは、人の時間の感覚、ひいては記憶という部分を扱っているからです。ここに興味が出るか出ないかでB級映画と言われてもそうだと思って仕方ありません。

この映画の評価について、一切ネットの情報を見ずに書いています。SF作品も手に取ることが少ない私なので、表紙で宇宙人と人間の交流を描くヒューマンドラマだろうな、というパッとしない印象を持っていました。有名なアニメ監督などが推しているという評判もあるそうで、そういった「監督の視点」では面白いことが起こるのだろうと、そこに期待しました。

あらすじは、いたってシンプルで「未知の物体が地球にやってくる。そして何を目的にやってきたのか分からないが、交渉の場が開かれているから、人はどうコンタクト、アクションを取るのか」ということです。

物語の進展の少なさから、平坦な話が続きます。ヒロインの女性言語学者の交流にも、にわかに面白みがないなぁと私は、唸ってしまいました。それでも深さを持たせるとするなら、各アクターの認識(コンタクト)がまるで違うことです。

未知に対する反応は、情報や、映画に即して言うなれば「言語」に付随する「思考様式」がひき起こすものです。(逆もしかり。)

メディアに宇宙人の凶暴な印象を持つ限り、その情報をもとにした嫌悪(フォビア)は高められていきます。

また、宇宙人の「武器の供与」が目的だと合点がいけば、中国は全面的な宣戦布告によって攻撃を正当化させていきました。

図らずもヒロインが「武器」ではなく「言葉」だと誤認を正してから、友好な解決への道が生まれることになりました。それは、映画を観れば分かるのですが、宇宙人の言語、思考の文脈を得て、彼女自身の思考様式が変容したことで活きたと考えられましょう。

 

【SFだからこそ成立する記憶の話】

記憶との関係性について、これはヒロインの「未来の記憶から現在(状態)を上書きする」行動が何を意味するかが伺えます。記憶単体は、そもそも同時的に存在するものです。

 しかし、記憶とは私たち人がいて初めて「過去にしか存在しない」条件で成立しています。だとしたら、未来の自分の記憶は存在しないし、あとで構成というのがふつうに想定できます。

この映画は、未知の宇宙人を「未来の記憶を持つ者」設定し、時間の流れ(過去→現在→未来)の連鎖を壊す「現在←未来」の逆因果の役割を果たします。それによって(ヒロイン限定ですが)いわばその人の未来の記憶と関わった他の人が、気づかないまま現在を並列化するようになったのです。これは、別の側面から言えば、ヒロインの悲劇につながります。

以上、 どうも解説的な話でしたが、ここまでしか分かりきれませんでした。

正直に言えば、「言語=武器」なんじゃないかとか、どうでもいいことも思いつつ、私にはとても難しい映画だったと思いました。そのうえ、途中で巻き戻したりして、彼女の記憶を調べる手間もありました。

はたして、この映画はインパクトというインパクトに足り得たのでしょうか。そこは観た人だけが知り得る、まさに記憶次第でしょう。

最後に一節。

「もし、未来の人生が見えるならどうする?」
「自分の気持ちをもっと相手に伝えるかな。」

 

 

 

溢れんばかりの

 

《文章を書くときの私の心理》

 

  • 知識を並べるだけで満足するのは、他人の考えを頼ってコピペしているから
  • 知識を増やすだけで満足するのは、自分の意見に自信がなく、不安だから
  • 知識を自論のなかに無理やり引っ張るだけで満足するのは、自分の意見を絶対のものにして受け入れる器が小さいから

 

考えるのは無駄かも知れないけど、だいたいこの三点がいつも頭に残る。それらを全く気にしないとはならず、私には難易度が高い。

 

  • 知識を自分の論理性のなかへ落とし込んで成功することが、最大の満足とおおきな開放感を伴う。

 

おそらく、最初の3つの苦しみから逃れるためにこのような実現イメージを意識している。しかし、ここまで到達できる文章を作れた、あるいは誇れた試し(ためし)があまりない。(手のひら分?)

論理性という文の構築方法に、めっぽう弱くてしょうがない。とにかく「論理性」を知っているという段階から書けるという段階まで行き帰りを繰り返さないといけないのだろうけども。

 

やっぱ、心理的に3つの苦しみに見合うものでもなくなってしまうし、どうやら実現に見合うものもなかなかないため、動機も弱い。

 

 

《今日の一句》

 

思ったことをそのままに

つら、つら、つら、と

書き連ね

たら、たら、たら、ねと

欲を連ねる

"ズートピア"(2016) 動物たちの楽園を求めて

 

 

ズートピア、いわゆる動物たちの楽園。

この映画は子供が観ても大人が観ても、とても意味のある作品だと思いました。

私はこういう少しディズニー系の映画は苦手でしたのですが、登場してくるキャラクターたちの表情豊かな顔や動きは、とっつきやすくて笑ってしまいます。

ズートピアのコンセプトは、「誰もがしたいことをする」ひとしく理想的な社会です。この社会の夢と現実がどれだけ違ってくるのか、様々な視点で描かれていると感じました。

ではまず、なぜこの作品が面白いと思ったのかを挙げます。それは、ズートピアは、思ってたよりも楽園ではなかった、ということです。最後にしてもいくぶんマシになった社会で、楽園ほどでないが豊かに恵まれた社会なのです。このへんが所々で巧妙に表現されています。

残念だった点は、やはり肉食動物たちが凶暴化させる要因が「花」という扱いだったところです。もとは文明化し、理性を獲得した動物たちなのに「生物学的に」の一言で、肉食差別が始まってしまうというものでした。この本質的な問題から実は「花」だったんだよ、という顛末は、もう少し展開があればなぁと感じました。

ですが、私が勧める特に注意して見てほしいポイントは、主人公の女性ウサギと副-市長だった女性羊の考え方の違いが鮮明に映る点です。

彼女らは決して動物たちから見た目は強くなく、むしろ弱い立場として扱われた存在です。例えば警察官の職業は屈強な動物にしか成れないから小柄なウサギには無理だ、などです。副市長のポジションも高いとはいえ、意外に秘書扱いだと不満を漏らします。

主人公のウサギは、たとえ虐げられても身の丈を超える成果を出そうと頑張り、「肉食も草食も分け隔てなく、誰もがしたいことができる」社会を目指して頑張ります。

他方、羊は肉食動物たちを排除し、「ズートピア内90%の草食動物たちだけ」の社会を仕立てあげようとします。

草食動物たち、という区別をつけるなら彼女たちは同一の動物になります。羊の謀略はズートピアを安定的にするために同一化させる、より合理的な支配と呼べるかもしれません。ウサギは草食動物としてそれなりの地位は高められるのです。

しかし、主人公のウサギはそれでもズートピアのコンセプトを維持しようと選択したのです。たとえ虐げられても頑張れば認められる社会があると信じて。そしてそういう人が集まれる社会を望むのです。

このように、社会をどう捉えるかという本質的な問題がこの映画に隠されています。差別や虐げられる社会をどうズートピアに近づけられるのかという問いなのです。あらゆる動物たちは体格も、種も、能力も、性格も見た目も異なっている雑多な集まりです。そこに社会の差別や偏見が上塗りで形成されていく、これは人間の社会と照らして想像する機会にもなりましょう。

 

 

レビューも高い評価になっているのもこういった実験的なユートピアを描いたからなのでしょうかね。

したがって、この映画はとても奥深くて面白いものです。是非おひまがあれば見てみてください。