itoh-imaginary0205のブログ

ゆかしい雑記物。はたまた備忘録。

ベーシックインカム(追記)

山森亮さん(2009)の書評を書きました。

その最後段落に「よく分からなさ」で文を閉じてしまったことが、けっこう心残りになっていました。

(うまく理解も、そして平易にも伝えられなかったです笑)

 

なので、今日はもう少し本書の訴えを具体的に足したいと思います。

見返してみて、彼にとってのベーシックインカムは、社会的に「見えない」弱者を保障の対象にしていることなのだと思いました。

これは、政治的な合意が容易か否かといった観点で進められるものではなく、感情的にあるいは正義のために「すべき」ということです。

それは、一般的な労働そのものに難しい人々に限定したもので、「生存に精一杯な人々」を指しているのです。

だから、非正規雇用であれ、ワーキングプアであれ、労働可能な範囲には「積極的ではない」可能性を含みます。

 

このことから何が言えるのでしょう。どうやらベーシックインカムは、労働市場から抜け落ちる対象に対して、劇的に変化させる効果は見込んでいません。

(まだオランダやフィンランドなどで実験中なので分かりませんが、、、。)

また、再雇用の可能性を高めるわけではないということが理解されます。

山森さん(2017)のコメントによると、

(AIによる雇用を奪われるのでは?という質問に対して)

失業者はある程度増えるだろうと考えられます。そうなると、今ですら生活保護の対象者の選別は難しい状況なのに、失業者が増えたときに果たして運営可能なのかという疑問があります。生活に困窮している人が偏見を受けることなく、安心して暮らせるような社会にしなければいけません。

なぜ今、ベーシックインカムなのか? / 井上智洋×山森亮×荻上チキ | SYNODOS -シノドス- | ページ 2

つまり、このことから

限定的生活保護→万人のベーシックインカム

の楽観的な移行シナリオが用意されています。

しかし、実際に失業者が増える、質的に非正規雇用という層でありながら、そのようなレベルにまで「積極的に」分配すると政府の側は失業率をもはや、手放す事態になってしまいます。政治的な不安定を容認しているようなものです。それは、かなり危惧だと思います。むしろ現実的には、一定層の支持を保つよう働きかけをすると考えられます。

 そして、ベーシックインカムが安心して彼らの活動の幅を提供できるかについて、早計だと感じました。ベーシックインカムは解決の一部で、冒頭のように給付対象をフォーカスするのならば、それは効果なしに正しいでしょう。

しかしながら、ベーシックインカムの平等性(万人)がいくら正しいとされても、それ自体に「安心」ないし「選択の多様化」は保障しないと思いました。

批判的な視点から整理すると、ベーシックインカムの立場は平等性の観点で一部の対象を救いつつ、それを徐々にレベルを拡張するという立場になるのではないでしょうか。

 しかし、余りにもレベルの設定が容易ではなく、労働市場から抜け落ちた人々をレベルに区分けさせることなど出来るのでしょうか。その時の政府の態度は「保留」あるいは「限定的縮小」、「局所的拡大(選別的投資)」に帰するのかもしれません。

 

さて、このようにベーシックインカムはメリットとデメリットが存在しているのが分かります。私はこの「よく分からなさ」において、ベーシックインカムが万人の救済たりえない、ということを今回で理解しました。

ただし、「ベーシックインカム」から「ミニマムな公正」を求めることが部分的に可能だったのです。

 

このへんで終わりたいと思います。ちょっと解釈があって、誤りがあるかと思われますが、自分の中で見取図はとれたかなって感じです。

多少ほかの参考にしていた文献が有りますが、ここでは挙げてません。なにか興味に触れる項目があったら、是非調べてみてください。

ペーシックインカムとは?《書評》

 

山森亮(2009)『ベーシックインカム入門』光文社新書

 

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

 

 

 

本書は2009年に、つまり8年前に刊行されています。その頃からベーシックインカムについて考えられていたのですね。新書なので、手軽に読める層に影響を与えようと企図したのでしょう。ただ、流行に支えられるので、なかなか廃れも早く訪れてしまいます。

2008年のリーマンショックの影響で、政治的に「生活保護」がやり玉として挙がった時期でもありました。

 

では、そのような背景で本書はどのようなことを伝えたかったのでしょうか。ベーシックインカムを経済学、政治哲学の思想や社会運動を包括的に取り扱ったものだ、ということは確かです。

まず、特徴として70年代にかけて世界的な社会運動が政治的な要求へ変わる経緯を叙述しています。ここで登場するのは、黒人のシングルマザーやイギリスの要求者組合、そしてイタリアの「女たちの闘い」という家事労働に対する保障から、所得保障の直接的な要求へと展開されていくものです。(第2章)

ここで一例を紹介します。イギリスのシングルマザーの福祉には、家庭を前提にした給付ルールが存在していました。それは「同棲ルール」という同居している男性がいると査察官から認められれば、給付を打ち切るというものでした。これは、行政の監視を強化して女性に対する辱めを与えるという批判があったそうです。(p90)著者によれば、「要求者」というアイデンティティを形成することにより、運動団体を避けて尊厳のある生活者を認める「ネットワーク」の役割を果たしたと判断します。

しかし、これらの運動は衰退の一途をたどります。イギリスの要求者組合は、1970年代半ばから1980年代にかけて消失していったと述べられています。(p98)女性たちの解放という意味で共通していますが、この背景にある「男性稼ぎ手モデル」を払拭できていないことにも由来します。事実、フェミニズムによる批判も連鎖的に発達するのでした。

このような展開から果たして、何を学べるでしょうか。

日本において一般的な認識に頼れば、「日本的経営」システムが崩れ、非正規雇用だったり、ワーキングプアなど、働いても生活時間が取られる状態が揃っています。労働条件を多少超えても労働者の仕方のない「能力」の問題だと捉えられるのかもしれません。

短期的な職のローテーションでは、正規としての見込みも低くなります。

他方、生活保護に対するバッシングが今もなおあり、世帯単位で補えないか「資力調査」を正当化する、簡単な論理が存在します。実際の捕捉率は現状や世界的に見ても低いにも相変わらず、と入れておきます。(第1章)

日本において、「性的役割分業」が支えられた理由は男性の稼ぎが家庭を賄えるという論理でしたが、今はどうでしょうか。

共働きが普通のように感じますし、それでも家庭を作ることのメリットを以前より感じにくいのかもしれません。

このような潮流からみれば、ベーシックに保障して欲しいという動機も生まれやすく、下支えとなるなら合意が得られることもあるかと思います。

しかし、私にとって本書を読んでも何となくわからない部分があるのですが、この「何となく」は、単にユートピアなお話だと感じるからなのでしょうか。それとも日本にはこのような考え方が受け入れにくいのでしょう。

冒頭にも述べましたが、希望の党マニフェストといい、本書の新書といい、知的な遊びやガス抜き的な「流行」の匂いが漂うのです。

 

 

"Stranger than fiction"(2006)

 

映画の紹介と感想です。

前置きですが邦題(「主人公は僕だった」)と映画の内容が、ズレているような気がしました。

(Truth is)"Stranger than fiction" で「フィクションより奇妙だ」転じて「現実は小説より奇なり」という語呂合わせになります。

この題からも明らかなように、現実と小説の間には予期せぬことが起こりうることを指しています。小説とは、物語の中で喜劇、あるいは悲劇といった終わりが有ります。

今回の映画の核は、この「終わり方」を現実の人間の「生き方」との対比で戦わせている点です。

ここで簡単なあらすじ(導入)を紹介すると、主人公は国税庁に勤める男で、何でも行動や目に映るものを数字に直す、癖のある人間でした。しかし、ある日、頭の中の語りが女の声だと知り、自分の行動が声の主によって左右されていると思うようになりました。そして、その声の主から「このちょっとした出来事によって死んでしまうとは、知るよしもなかった」と言われ、彼は、声の謎によって、自分の生き方を見直す契機になるのでした。

私の感想としては、ちょっとトゥルーマンショーに似ていますが、この映画の方がストレートな表現なので面白かったです。でも、主人公の過去が全く出てこない点に少し違和感がありました。また、「人生何が起こるか分からない」という部分を通したいが、ちょっと単調ぎみだったのかもしれません。例えば、有名な大学院にいた女性が「平和のために」ベーカリーを営んでいるなど…

 

 

 

(ここから以下はネタバレ含みます。視聴後か、気にならない方はそのまま。)

 

ほぼ全容になってしまうのですが、私はこの映画を、2つの視点からみていました。

まず、第一に小説家と主人公の生きる現実と出来事が一緒だとしても、単に「偶然」一致していた場合があります。たびたびベーカリー屋の女性や唯一の同僚、ホームレスとの「会話」が起きます。たとえ小説のストーリーラインには些細だとしても、心境変化の大きい偶発性があります。現実の主人公は、彼らとの関係を、表情に乏しいながら喜んだり、泣いたり出来ます。

そして、それは小説家にも及びます。

映画の終盤で主人公は、小説家(声の主)とその小説に触れて、自分の死を結末に書くように勧めます。しかし、彼女は葛藤した末に、自らの意思で彼の死を回避させる「偶然」を装ったのでした。

この第一の点から考えられる「偶然」とは人々の生き方や死に方を決定するものは存在しないし、干渉できないという「生への意思」によるものです。

 

次に第二の点として、主人公と小説家はほぼ同一人物ではないか、という共通性です。

主人公は国税庁に勤めながら、人との関係を築く喜びに気づかず、いつも同じようなルーティンワークをこなしていました。いわば、自分を殺す、生き方の消失でした。

対して、小説家は殺人の悲劇小説に真剣になるあまり、スランプにありました。その要因は「人を殺す」というリアリティに罪悪感を抱いたからです。そのため、人の死に方だけに囚われます。病院のシーンでも、確実に死ぬ人物に会わせてくれとまで言うようになります。

結局、タバコで気を紛らわしながら、現実の生き方を失われていくようになります。

また、どちらも孤独だったことも共通しています。そしてどちらも映画のラストのような「温もり」を欲しかったのだと気づくのです。

 

以上のようにかなりストレートな内容なので、全体的に面白いと感じました。最後に温もりとして、2人を合わせて救済したという部分が喜劇でも悲劇でもない「決着」です。とても良かったと思います。

 

 

 

 

 

開票と実感

 

立憲民主党議席が思っていたよりも伸びました。この感覚は希望の党が失速したことや、そして枝野さんの熱い演説模様のメディアの報じられ方によって、巻き上がったのでしょうか。もしやツイッターの反応も作用したのでしょうか。

議席の予測に関して、開票前の接戦と予想される選挙区で何個か立憲が逆転勝利を為し得たことと考えられます。

当たり前ですが、それ以上に積み上がった「比例票」もあったと思います。まだ開票が終わってませんが、私には、こんなに議席取れるとは予期してませんでした。希望の党とほぼ同じか、少ないと見積もってました。

池上さんの選挙特番を見ながら、ツイッターも眺めながらやっぱり政治は分からないなぁって驚きの確認作業をしていました。

番組キャストの峰さんがどこに投票したかを紹介していました。有権者の選択は特に興味の標的になります。

いわく、立憲民主党でという選択で、その理由と明確な根拠を持っていませんでした。代わりにあったのは自民党や安倍首相に対する失望感だったと思います。

反して、自民党に対する脅威を与えるという立場だけで野党に投票したことは、業績を無視して無謀な政党に票を流すという側面が指摘されます。ツイッターには、行き過ぎた表現も多く、彼の「頭の悪さや浅さ」との意見も…。けっこう横柄に見えなくもないですが、自民党あっての今の生活が成り立つという自然視が根底にありましょう。

しかし、私は当然のように考えなくて良いのではと思います。有権者が判断しうるほど「業績」って細々で見えると思えないからです。それが世の中の常識や判断で決定されるものとも思えません。どんな人もバイアスがあると思うからです。現状評価と見合わない票はあり得ないのだと正確に言えません。だから人物本位でも構わないと私は思っています。峰さんの言うことに、私はけっこう共感が持てました。

あと、たとえ無謀な政党でも政権交代でなく、国会内部のコンセンサスを取りつけるという目的であるなら問題ないし、むしろ活性化されると期待します。

(前にもおんなじことをブログで述べました。繰り返しですね。)

今回の選挙の議席配分で希望と立憲が分け合いました。共産党や維新の会は前回の衆院選挙より減るでしょう。公明党も伸びず苦勝。立憲民主党の躍進も含め、分散した民意をかろうじて野党が拾ったのだろうと思います。投票率も台風の割に(まとも?)高めでした。これがやっぱりリアルな声だと思いました。

一強に賛同し肯定することも必要ですが、ともに腐敗がないように票を循環させることもこの国の為になるかなと思います。

 

 

どうでもいいですが、台風の音が轟々と響いてます。 土砂災害の地域もあり、家の近くで避難勧告も出てました。自然はものすごく怖いですね。

 

 

 

映画感想。人間的なもの。

 

『T2トレインスポッティング』(2017)をレンタルして観てみました。イギリスのスコットランド制作で、原作は有名な小説に依っているそうです。動機は、映画の独特性と個人的な関心と重なったからでしょうか。

以前に「トレインスポッティング」(1996)を観て、

「この映画の題意、そして何を伝えたかったのだろうか?」

と不可思議に思っていました。第一印象は、「破天荒」「若者がもつ粗暴さ」こういうありきたりな形容でしか見通せませんでした。

確かにヘロインを始めとする薬物依存症や窃盗、喧嘩上等の登場人物(ベグビー)など、感情移入が難しかったのです。日本に住む人には遠い物語的なものにしか映らないかもしれません。若者の閉塞感とそれへの昇華が溢れた作品だったと感じました。

そして、このような心情を抱きながら、映画の続編を迎えました。

前作のラストから20年後を描く今作は、若者の姿から見た目は「中年の大人」へと下ります。基本的に若者から大人に変われば、彼らの粗暴さは少なからず取り払われていく、そのような成長を得るかと思いきや、全く変わっていません。いくら経験しても、直そうにも直さないもどかしさ。

しかし、逆にとても人間らしい、変わらない彼らに共感も抱かせるわけです。

この映画のキャッチコピーは「人生を選べ(choose life)」です。人生を選べ、と社会という実体のないところから命令が下る、そこに焦燥を抱えつつも、結局変わらない「人の性」が描かれています。

このような視点からみると彼らの物語は「悪」行ではなく、何ともなく切実な「叫び」に変わるということでしょう。悪と呼べるかどうか迷ってしまう、それは自己に省みないと発見しえない感情かもしれません。だから結局、物語的なもので認識するしかないし、そして彼らのような素行を被りたくはないという忌避意識に届くのでしょう。

あるワンシーンで主人公のマークは、人生の選択を訴えかけます。セリフには、定職につけない、SNSFacebookに写真を載せて「自分を見て」とした社会病理な在りように皮肉を込めて、まくしたてます。そして、相手に「人生を選べ」と社会の代弁するのです。非常に自分の生活範囲を超えた上から目線なのに、核心を突いたような気分にさせてくれます。

(私の飛躍した勝手な解釈ですが、)つまり、「人生を選べ」に隠された社会の姿は、動き出してまた一旦止まる電車(train)に例えたものだったのではないでしょうか。彼らは足を止めて(spotting)叫び、次の停留所(ライフイベント?)に構わず精一杯頑張る。でもそれはレールを乗っているふうに、社会は変わらず運行を優先して日々を送るのです。人が作った人ではない「機構」ですから、当然かもしれません。

しかし、そこで疑問がはたまた浮かびます。では彼らの滞留した感情は解決困難な苦悩で片付けてよいのでしょうか。分析的な観点でみたら、社会心理学のいう認知的不協和の問題かもしれません。

また、この映画の背景に、スコットランドの生活を重ねている記事を見かけました。私の記事よりこっちの方が分かりやすく、お勧めです。

スコットランド人は『トレインスポッティング』をどう観たか? - i-D

イギリスの政治事情と独立の気運を高めているスコットランドについて書かれています。人間的な部分が政治の場面にも登場している面白い話だと思いました。

独立へと進むとしたなら社会のルールさえも変えてゆける、そういう力強い像があるのでしょう。

 

 

相変わらず、オチのない衝動で書いているので、今回もこれで終わりたいと思います。結局のところ映画について、前作をつないで、良かったなということです。現実離れして、少し消化不良なところがありますが、くせがあるだけで何も考えず時に笑って観ることが1番ですw

 

 

(2)「希望」の導き?

 

今日は自民党の次に「希望の党」を簡単に整理したいと思います。というか、今日の話は、政治理論?思想?なのかな、それをピン留めすることを目的にします。希望の党を掘り下げたりはしませんし、この政党を掘り下げるほどの何かが、今は浮かびませんw

余談ですが、もう選挙日まで残り2日となりましたね。台風の影響で日程を繰り上げるなど、乱戦ならぬ天候に嫌われた選挙になりましたね。台風の目は、自民党ですね。これは相違ないです。台風一過の天晴れでしょう。

さて、希望の党を改めて見直すと、他党との公約の顕著な違いはどうして生まれたのだろうかと思います。例えば、ベーシックインカムという現金給付型の制度です。率直に先進的すぎて現実味が薄く、有権者が離れてく可能性もあったわけです。小池氏はその政策についての説明は少なく、実際のチラシにも載せてなかったという具合です。

以下、参照。

希望の党「ベーシックインカム公約」発案者を直撃——実現可能性を検証した | BUSINESS INSIDER JAPAN

上に参照したサイトにも書いてある通り、この発案者の意図が通じていなかったという点もまた、重要だと思います。

実現可能性は置いておき、ベーシックインカムは、簡潔に言えば「国が生活最低限のお金を与えて、自由な目的のもとに使う」ことです。この自由とは、単に労働をしない、も目的に含まれます。

ようは、使う人の価値観次第なのです。スタートラインは保証して、あとは自由なゴールを目指すようなものです。(かつて、そんなCMあったような?…)

だから、「再分配」政策でありながら、「新自由主義」に親和的な性質も併せ持っているということになります。

 

私も詳しく知らないので、今回はピン留め程度ですが、ブレグマンの『隷属なき道』(文藝春秋 2017)が参考になるそうです。今日はこのへんで。

 

隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働

隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働