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”帰ってきたヒトラー”(2016) 現代に燻る対立

今日は映画感想です。映画はドラマに富んだものから現実に近いものまで、極端に線を引くことができない魅力があります。

今回もそのひとつ、”帰ってきたヒトラー”を紹介します。

この作品は、「政治を身体で感じる」だと思います。

政治を肴にして喋る人は往々にしていますが、国家に為すことは何か、政治家はどう為すのかを期待する全ての方に、お勧めです。

もう2年前のものですが、まだ色褪せてない問題を投げかけてきます。

 

公式サイト

映画『帰ってきたヒトラー』公式サイト

記事

Adolf Hitler novel tops German bestseller list but divides critics | Books | The Guardian

 

あらすじは、ドイツの現代にヒトラーが蘇ったなら、です。ヒトラーをコメディからリアルに受け止めていく観衆がよく表現されています。

 

私は感想として3つあげたいと思います。

 

まず、ヒトラーの「実直さ」です。

各地を回って民衆の意見を聞くに徹することで、存分に感情を引き出しています。主演を務めた俳優もそのように聞き手に回ることを意識していたため、それに乗らせる(合意する)言葉を付けて、友や仲間のような懇意を相手から受けていました。また、映画全体でですが、不快に思う民衆も現れ、それに対しても態度をオープンにしているので、ここにも「実直さ」を感じさせます。

 

そして、目をモザイク加工しているほど、「リアル」にインタビューや映像を撮っているところです。映画以上に実際のことをしたのです。ヒトラーは冷静に考えて存在しませんが、もしヒトラーを前にしてインタビューされるなら言いたいことも言えないかもしれませんし、より言いたいことを強く言えるかもしれない、という両面が見えてくるでしょう。

 

最後にストーリーの展開ですが、ヒトラーはなんと「緑の党」がまだましだ、と考えるところです。国の環境を保全することが国家の伝統的な態度により近いという意味が示されます。国家を明瞭に意識するには、地理的な環境が最もらしい理由になるということを改めて感じさせました。

 

「民主主義は脆い」しかも「積み上げてきたものである」のはとても理解のある言葉です。ですが、それは多くの人々が多様に意見を出せる機会を保障している状態を指すものであり、選挙の票で政治家を選ぶこと、単にそれに尽きるのだと思うことも一種の民主主義だと言えるでしょう。

ヒトラーがひとり、ふたり居ようが、数々の政治家がおこなった政治への評価は、黒にもグレーにも白にもみえてきます。それが暴力を伴ってしまう危険性もあることで、民主主義は善悪も従えながら常に選択を必要としています。

 

極右政党の台頭、国家中心の移民排斥の意識など日本では馴染みの薄い気がしますが、この映画を楽しむには分からずとも感じることで充分だと思います。

書評:高安健将(2018)『議院内閣制』責任政治のために

 

 議院内閣制は日本とイギリスで共有する政治制度です。では、具体的に議院内閣制はどのように機能しているのでしょうか。簡単に出てくる言葉は「議員(院)から選出された人々が内閣を組織して、行政権を得る」だと思います。そして、安倍内閣のように集権化され、政策の裁量をもっていることが特徴的です。それは個人的なパフォーマンスに左右されるだけで認められる現象ではありません。いわゆる(特有の)制度として既に埋め込まれている効率性が存在します。(p39を参照。)
 では、それが行き過ぎないために、効果的であるにはどうしたら良いのでしょうか。本書は、イギリスを参照して議院内閣制のコントロールをいかに求めるのかを分析したものです。

 政治学者の高安健将さんは、イギリスの政治状況と成立の条件をもとに議院内閣制の前提条件を立てます。

 まず、政治エリートに向けた非エリートの人々の信頼によって成立する(第1の前提.p33)とし、それが満たされているならば有意に機能するという条件を立てます。反対に言えば、不満があるのならその信頼を落とし、エリートの権威的な支配と認められてしまうというわけです。

 第2に「政権党の利益集約能力とその凝集性(まとまり」(p36)が必要だとしています。イギリスは二大政党による民意集約を基本としており、その政党を支持する有権者の意向は、政権党の意向に限りなく共通するということです。そうなれば、内閣に対するコントロールにも通じるのです。(第1章)「内閣と官僚の関係性」(第2章)と「政権党と内閣の関係性」(第3章)では、具体的に権力に対するコントロールの手法を挙げています。


 特に本書の先見性や洞察力は、議院内閣制のバージョンアップとされる第5章の内容に見て取れます。近年のイギリスでは、二大政党で民意をカバーすることが難しく、空洞化が指摘されていました。このため、議院内閣制に対する改革が必要になってきたのです。そこで高安さんは、議院内閣制の「外」にある国家構造改革に目を向け、議会(庶民院)内の特別委員会の設置と貴族院の活性化、各領域への権限移譲と「より高次な法」の形成および司法の独立を挙げています。これら一連の流れを、議院内閣制を補完する、権力分立という形で摂取しているわけです。(マディソン主義的デモクラシーと言われるものです。)

 ここには重要な示唆に富んでいます。単純に権力分立を与えたとしても、その目的の方向が国家の統治にかなうものでならなくてはならないことです。議院内閣制の信頼回復に「外」からの権力分立が必要であり、それが有権者の信頼の回復にも繋がらなければ意味を持てなくなるので、政治家が民意を汲み取る期待をそこに込めているわけです。

 

 以上が本書での概要と、示唆された主張です。私はイギリス政治についてよく分からないひとりですが、日本の政治との比較にもなる、とても意義深いものだと思いました。本書の内容はとても論点が沢山あって、何度も読まなければ理解が難しいものです。2017年に刊行された同じくイギリス政治の専門で有名な、近藤康史さんの『分解するイギリス』ちくま新書、とも合わせて読んだら一層の理解が進むでしょう。

 

分解するイギリス: 民主主義モデルの漂流 (ちくま新書 1262)

分解するイギリス: 民主主義モデルの漂流 (ちくま新書 1262)

 

 



ひとつ、本書の理解が難しかったのが、「マディソン主義的デモクラシー」とされる要素についてです。それはまさに「外」の改革を指してのことですが、それが少しでも有権者の信頼回復に繋がる可能性というより「国家のあり方」が揺らいでしまったという否定的な意味の可能性が増してしまうかもしれません。EU離脱のレファレンダムが必要以上に内閣を縛っている危険性もあり、内閣の統制から外れてしまって、信頼どころではない権力分立の負の効果(悪く言えば暴走)が起きなくもないかもしれません。
それにしても、本書は根源的、かつ本質的な政治を知る上で貴重なものです。

 

議院内閣制―変貌する英国モデル (中公新書)

議院内閣制―変貌する英国モデル (中公新書)

 

 


また、自由民主主義(リベラルデモクラシー)を機能させる問いには、政治学者の待鳥聡史さんによる(2015)『代議制民主主義』と共有する課題もありますので、再び読み返そうかと思えました。

 

 

 

 

 

 

”スターウォーズシリーズⅦ7(2015).Ⅷ8(2018)”

 

12月に地上波であった初放送分(7)と続編の8を映画として見に行きました。

やっぱりスターウォーズの魅力といえば善と悪の対決ですよね。しかも善から悪へ堕ちたりするのでその攻防が面白いです。私は1から見始めたビギナーですが、クワイ・ガンジンとダース・ベイダーが好きです。

6までで完結してルーカスフィルムがディズニーに変更された時、完成しきった、もう手垢のついたものだと、私はいまいち期待していませんでした。三部作も作るなんて、人気になるのかなぁと疑問に思ってましたが、観てみたら、あれっと面白い。(なんでやねんっていう笑いの方が多かったかも。)

 

|   ここからはネタバレです。↓  |

 

1番の理由は、スターウォーズの善と悪の対比が強調して描かれてない感じがしたからです。それは、善悪を離れるか、2つとも壊す、「第三の道」を目指す人々(カイロ・レンやスノークルーク・スカイウォーカーとか)が出ててきます。

 

面白かった参考レビュー

https://theriver.jp/tlj-review/

 

7に続く8は、端的にルークからレイへのジェダイの橋渡し過程を描いたものですが、単純に師匠と弟子のような教育はおこなっていません。ライトセーバー初心者のレイがカイロ・レンと互角に競り勝つくらいの(7のラスト。私は思わずツッこみを入れたくなりました。)素質的に”既に”新しいフォースの使い手でした。このような6作までの矛盾や新しさが前面に感じ、ある人は幻滅を覚えることがあるかもしれません。

 

それでもですが、8の最後に出てくる子供とそのレンを比較すれば、どちらも貧困であることや、(仲間はいても)1人で頑張って生きているという境遇が共通しています。中心人物に置かれてきたアナキンもルークもそのような気がしました。むしろ、そういう意味では決して新しい訳ではなく、連続しているのではと思うのです。

それとは別に、私が面白いと思ったのは、放射台やらの”デス・スター”の「何倍」的なのがよく出てくるところです。いつでもデス・スターは偉大だったのですね。w

今三部作はスカッとする大迫力の宇宙戦ともに、心理的支えや葛藤を注目するとより楽しめると思います。

"Split"(2016) DIDと人間の進化を接合させる

 

『スプリット』という映画を観てみました。M・ナイト・シャマラン監督の作品で有名らしいのですが、私は余りよく知らないもので精神的な部分を扱う作品だなと興味本位で取ってみました。split=割る、裂くと訳されるわけですが、おそらくポスターの裂けた感じから取られているのでしょう。

この映画は多重人格障害(現、解離性同一性障害)のスリルホラーと、誘拐された女子高校生達の恐怖心理を組み合わせた作品です。

 

(ジャンル)スリラー、サスペンス、ホラー、ミステリー

Split | Movie Page | DVD, Blu-ray, Digital HD, On Demand, Trailers, Downloads | Universal Pictures Entertainment Portal

 オフィシャルサイト

映画『スプリット』公式サイト 10.6[FRI] Blu-ray&DVDリリース!

 

まず単純な感想からですが、主演のマカヴォイは『フィルス』(2013)で異色の役を演じていたので、今回も人格が変わる度に迫力ある演技をしているなぁと感心しました。人格が変わる仕草は色々特徴的なので、面白かったですね。

 

実際の映画全体については、多重人格者の性質が人間の進化に結びつく視点を提供しているので、それがかなり(非現実だが)魅力となって示されていました。つまり、人格や精神意識が発する身体や能力の開花を、人間の超越的な「進化」に当てはめさせるのです。例えば糖尿病を持つ一人格ゆえに、身体が化学反応を発生させて糖尿病の症状が現われるとされています。精神が肉体に影響を及ぼす例は、必ずしも非現実と断言できない側面が有るそうです。

映画では、トラウマを超克するための新たな人格、「ビースト」(単に獣だけでなく、自分を守る存在)を多重人格の主人公に宿していきます。トラウマで生じる幻影のはずが、肉体まで硬化するような怪物に変身します。とりわけ精神が、怪物(親というトラウマ)には怪物(肉体の動物化)で打ち勝つしかない「目には目を」の道理に従っているのです。

最後の、動物園だったエンドも「進化」の一貫性を持たせるものだとすればそれなりに納得出来ます。

 

しかし、私は今回の映画に以下の2つの不足点があると述べておきます。

 

第一に、「進化と怪物」の関連性です。進化とは動物進化の位置づけに最大の特徴を持ちます。ですが、だからといって「怪物」を進化の延長上にみなして良いのかについては、常に疑問があります。別の意味に変わるような、例えばファンタジーの領域に触れる可能性があります。映画中の怪物は人の型を残してましたが、巨大化をそれほどしえなかったという面で、怪物さに欠ける存在でした。また、体の各部を諸々の動物に例えた「ビースト」(カウンセリング中のセリフにあり)が原型だとしたら、それは進化ではなく「つきはぎなるもの」なのではないでしょうか。こうした微妙な感覚を抜きにして、単線的に動物進化と怪物を繋げただけでは、何か違和感の残るシーンがあるのではないか、と最終的に思いました。

 

そして第二に、女子高生とはこの映画でどういう存在を企図していたのでしょうか。彼女らは、「(覚醒せず)寝ている」「(汚されず)不純である」「(傷を受けず)何も傷ついていない」などで、ビーストの食料とされています。同じ人間なのに正反対、そういう対比の中で出てくるというわけです。

ですが私は、多重人格者に一方的に誘拐され、そのように勝手に解釈されるというのは酷に見えてしまいました。女子高生が「いずれ」目覚めるか既に(ある)状態なのか、それとも「そもそも」見込みも(ない)状態なのかでは、意味が大きく異なります。確かに、上に挙げた表現の時点で背後に(ある)のを暗示してますが、それ故に露骨な恣意性を感じてなりません。要するに、わたしは安易に対比させることは良くないという逆の立場といえます。

なので今回は、女子高生の妥当性というべきか、心理的にも理解に苦しんだかもしれません。

(ホラーやスリラー系はあまり観ず、気に入る作品が少ない理由にもよる。)

 

 

【感想のまとめ】

この映画は、全体的に面白かったと思います。それは動物の進化と精神の能力開花を合わせる試みであって、その一貫性を上手く表現されていました。

ですが、進化論的なのをそのまま精神や人格の開花に適応させることは難しく、肉体の超越が動物進化の限界領域を超えてしまえば、ファンタジーに映るという危うさも残っていたと思います。要は「怪物」は精神の屈折したかたちであれ、それ自体枠にはまりにくい存在だからです。(「進化」にも関連する)

しかし1番の収穫は、主演のマカヴォイの凄い演技が観られたことです。純粋に彼の他の作品を見てみようと思いました。

 

 

 

 

 

"Tigers"(2014) 獰猛なセールスマン

 

”汚れたミルク''(2017)を観ました。この映画は、粉ミルクを売りさばく多国籍企業の実状に、ひとりの男が告発する過程を描いたものです。実話をもとにして制作されたものです。

 

公式サイト

映画『汚れたミルク/あるセールスマンの告発』公式サイト|2017年3月4日(土)、新宿シネマカリテにてロードショー!

 

粉ミルクの使用を適切におこなうには、需要側の衛生環境が伴わなければなりません。乳児の発達に支障をきたすという最悪の危険を孕んでいます。

また、それを知らずして企業側が売っているとなると、倫理的、社会的責任が問われる問題となります。

ネスレ製品が原因で起こった「ネスレ-ボイコット」は、こうした健康被害に対する抵抗運動と言われています。

 

ネスレボイコットについて↓

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ネスレ・ボイコット

 

分かりやすい多国籍企業=「巨大な組織」vs「元社員」という明確な対立構図が展開されていますので比較的頭に入りやすい話です。

この題「Tigers」について。これは、新規採用の説明会的なワンシーンと、主人公と妻のカットに出てきます。セールスマンを虎に見立て、医者やその周囲の従事者の顧客を獲得する =「狩り」を象徴しています。国産の商品は後景に退き、国際資本が幅を利かす市場の生存競争を印象づける言葉だと思いました。

この映画の肝は、多国籍企業への告発は「既に棄て去った過去ではなく、それがなされるまで粘り続けなければならない現実にある」ことだと思います。(映画のセリフに似た表現あり)

映画の結末は明らかにすっきりした終わりではありませんし、展開の静かなフェードアウトが効いてました。

少し残念に思えたのは、告発中の展開があまりにも少なく、ことさら冗長だったことです。主人公の表情もなぜか変わらない気がして、それも残念(退屈)な気分になった理由の1つでした。粉ミルクの事件に更なる2次被害とかあったら面白かったと付言しておきます。

 

しかし、『人生に賭けてまで告発を起こしたり、続けられますか?』という問いが示唆されています。それはこの映画で痛切に感じ取れるかもしれません。

 

”西郷どん”を迎えて

 

今年最後の大晦日に更新します。記事を見てくれた方も、リアルの関係した方々も、今年1年間、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

 

今日は、来年の大河ドラマと絡んだ話を少ししたいと思います。林真理子が原作の大河ドラマが始まります。題名は”西郷どん”。幕末から明治の激動を見たい方に、とてもお勧めします。きっと、面白い展開になりそうと、私は想像しています。

NHK大河ドラマ『西郷どん』

 

言わずもがな、明治の時代を作った立役者のひとりです。単に明治の英傑と捉えるのもありますが、それだけではない複雑な顔を持っているでしょう。

 

大河ドラマから考えるに、西郷隆盛の生涯で、もっとも重要なキーワードは「愛」だと考えられます。

 

素顔は、脇は甘く、愚直でうかつ。彼に出会ったものは皆、西郷が好きになり、愛嬌あふれる男の周りには、いつも“笑いと愛と波乱”が満ちていた。
「すべての民が幸せに暮らしてこそ日本国は強くなる」と信じ、人を愛し、故郷を愛し、国を愛し、民を愛し・・・“見返りを求めない愛”を与え続けた男を、人は親しみを込めて、『西郷どん(セゴドン)』と呼んだ。

(NHK「ものがたり」より一部抜粋。)

 

 不思議なのは、西郷は騒乱の幕末を生き抜いたはずなのに、明治に入ってから「内乱」によって無惨に死んでいるということです。

 この国を愛するという志が、一方で、西南戦争という明治政府に対する「最後の」挑戦を起こすわけです。

時の福沢諭吉は、明治10年『丁丑公論』で、西郷の在り方を擁護します。西郷は、国家に反する賊(此頃の新聞ではそのような形で報道していた。)ではなく、独立した抵抗の精神であったと評価するのです。国家全体を覆す行為に捉えず、部分的にも国家に利する行為ではなかったのか、と問うのです。

福沢のいう抵抗とは、専制に対する抵抗であり、彼にとって重要だった点は、憂国の士を想うことです。

「抵抗の法一様ならず。或は文を以てし、或いは武を以てし、また或は金を以てする者あり。今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にするところあれども、結局その精神に至ては間然すべきものなし。(丁丑公論緒言)」

 

「西郷は智力と腕力の中間に挟まり、その心事、つねに決せずしてついに腕力に制せられたる者というべし」むしろ、バランスに優れた、透徹した眼を備えていたのです。

 

有名な一節もここで引用します。

 

「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国法厳なりといえども、豈一人を容るる余地なからんや。日本は一日の日本に非ず、国法は万代の国法に非ず、他日この人物を用るの時あるべきなり。これをまた惜しむべし。」

 

愛される存在は、つねに嫌われることも考慮して、もっぱら恐れることはないでしょう。

西郷隆盛は、本当に福沢の言う憂国かつ愛国の士でありえたか」は議論を呼ぶかもしれませんが、こういう精神的な魅力は、当時の人々にも惹きつけてやまなかったといえましょう。

 

というわけで、西郷隆盛の最近出た新書をここでピン📌に止めて終わりたいと思います。来年もまたぼちぼち、知的な刺激を与えられるよう頑張っていきます。

(あと数時間ですが、良いお年を過ごせられますように(^^) )

 

 

 

西郷隆盛――手紙で読むその実像 (ちくま新書)

西郷隆盛――手紙で読むその実像 (ちくま新書)

 

 

 

 

 

 

精神と脳の関連性について

 

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3442/2071010/index.html

 

NHKのドキュメンタリーは、とても面白いですね。この時の内容も例外ではありません。以下は簡単な感想コメントです。

ロボトミー手術とは、精神疾病が脳の問題だとして、脳の一部(前頭葉)を切断する医療行為のことです。精神科と脳外科を合わせて「精神医学」の誕生とNHKは紹介していました。

しかしながら、当然、ロボトミー手術はタブー視されています。精神の問題は、脳だけでは解決できない話だからです。

脳が切除され、他の身体や精神に異常をきたすような副作用が起こるのを、生みの親は考慮しなかったというのです。

ロボトミー批判の代表作、”カッコーは巣の上で”(1975)を私は観ましたが、まさに生命と自由意思の衝突と感じました。

精神病院に送られた主人公は、精神病院の冷淡な環境を知り、患者たちに「遊び」と「反抗」を与える存在になります。彼のその反抗的性格と問題行動から、病院側はロボトミー手術によって、最終的に解決を図ります。しかし、その精神部分が取り払われるだけでなく、主人公は植物人間へと変えられてしまうのでした。(あらすじ)

今回の番組をみて新たにした点は、皮肉にもロボトミー手術が、脳外科を高度に押し上げたことです。特に記憶を司る部位が海馬だと発見されたのも、ロボトミーによる患者のおかげとされています。

 脳を触ることは、神を触る行為に似ています。それと同時に、謎に満ちた存在だから気になって仕方ないほど、厄介なのです。

ロボトミー手術についてあまりよく知らなかったので、かなり分かりやすくて勉強になりました。ですが一点、司会の方がアクションが大げさというか少し偏見がまじって話されているところが目に留まりました。吉川晃司さんももっと表に出て欲しいなとも思います。